Uncertain Odyssey


世界叙情記
by crescentadv
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天空の彼方を想う

最近は、イスラームのみならず、初期のキリスト教関連の書籍も多く読んでいる。実は、宗教と名の付くものはあまり重要ではなくて、預言者たちが何を言い、どのように行動し、またそれに従う人々が何をやって、どう行動し、また何を書き記してきたのか。そこに関心がある。名前が付いた時点で、どんなに立派な教え(それがたとえ神の名において語られていても)も陳腐なモノと化す。政治、権力、抑圧を促す装置と化してしまうのだ。
 数千年来、幾多の預言者たちや物事を見極める目を持った人々は、求めるモノが目の前にはないことに気がついていた。と思う。そこには、真実から目を逸らさんがための数多くの障害、誘惑、堕落があり、それらをいかに克服し、その向こう側のはるか高みにある真理に行き着けるのか、それこそが幾多の預言の言わんとすることの主題だと思う。
 多くの人たちが、国家や政治、もっと卑小な例でいうと、学校や会社、地域社会の柵に囚われ、いかに周囲と協調していくかに心血を注いでいる。同じように、それぞれの人々が信じている宗教でもそうだ。誰もが型をマスターすることに躍起になり、その実内面は空洞のままだ。恐ろしい空虚が口を開け、そこから抜け出すことは至難の業である。あらゆる柵を捨てて、風の音や空気の匂いに耳を澄まし、それと一体(となるよう努める)ことにより、精神を静かに平穏に保ち、意識を遙かなるアイオーンへと思いを馳せるようにすると、何か違うモノが見え、違うことを感じることが出来る。そうしたときの、私たちの生きる世界のなんと空虚なことか。多くの人が、意味のないことを信じ、それに邁進し、そのために命を枯らしていることか。そこに思考が行き着いたとき、本心では全てがバカらしく思えてくる。とはいえ、この世界に生きている以上、なんらかの折り合いをつけていかなければならないのも、また真である。それが出来ないときには、この肉体を捨て去るしかないのだから。
 私たちの周囲には、聖と俗が共存している。分かちがたく混淆しているといったほうがいいかもしれない。そして、多くの人々はそういうことを意識せず、もしかしたら気がつくこともなく、命を終えていくのだろう。ある時、ふとそういう思考に行き着いて、それ以来あらゆる場所で、そういう感覚がわき上がってくるのを感じる。


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by crescentadv | 2007-03-02 17:36 | パレスチナ
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